雨の記憶〜悟空の記憶〜



 ポツリ。
 ポツリ。
 ポツ、ポツ、ポツ、ポツ・・・・・・・。
「水・・・?」
 見上げる空は薄水色。天上を霞んだ雲が埋め尽くす。
 寺院の小さな中庭で、小さな花を観察していた悟空が空を見上げた。
「さんぞー!さんぞー!」
「うるさい。何だ」
 二階の窓から顔を出す。
 三蔵は溜まってしまった書類を早々に片付けるべく、自室に籠もっている所だった。
 下を見ると真ん丸目の阿呆面で、遠く空を見上げている。
 それは初めて出会ったあの顔を、思い起こさせた。
 あれはほんの数日前の出来事。
 三蔵は山深い道をひたすら歩いていた。
 拠点としている寺院から遠く離れた修行寺への出張の帰り道。
 名も無い山道で急に強くなった声に導かれるように、彼は山を登り始めた。
 声にならない声が聞こえる。
 言葉の羅列でも、誰の名を呼んでいるわけでも無かったが。
 その声は確かに自分を喚んでいた。
 寄り道を決めた三蔵を、何時にない喧しさで止めようとした従者の態度に、後になって合点がいく。
 彼はその時当然知らなかったのだが、彼が登ろうと決めたその山は、地元でも難攻不落の山として有名で、昔から頂上には恐ろしい獣がいるとか、はたまたそこには神の住まいがあるとか、色々な説が流れていたが、どれにも共通する事は、結局誰一人として頂上に近づいた者は居ない、と言う事だった。
 はたして彼は、「寄り道」と言うには少々長すぎた道のりを一人で攻略し、下山する時には「獣」とも「神」ともつかない生き物を連れていた。
 どっちかというと、獣かもしれない。
 それは本当に目が離せないくらい、よく動くのだ。
 寺院に着いた三蔵を待っていたのは、寄り道した分溜まった仕事と、拾ってしまった獣の躾だった。
 山のような書類を前に、ものを知らぬ獣の躾をしばし放棄しかけた三蔵だったが、意外にもそれは自分の言うことをよく聞いた。
 初めて見た三蔵の姿は、恐らく沢山いる彼の見た目だけの崇拝者達と同じく、この獣を虜にしたのだろう。
 キレイ。きれい。綺麗。
 聞き飽きた賛辞。
 それしか言葉を知らないのかと思う程、出会って間もなく幾度も聞かされた。
 だが、悪い気はしなかった。
 彼の言葉は裏のある者達と違って、心地よく胸に響く。
 何も持たない空っぽの心で、いわゆる素直に口から出る言葉と言うものはこんなにも安心するものかと、正直驚いた。
 連れ出した時の彼は真っ白だった。
「俺・・・誰も呼んでねェけど」
 自分の問いに答えた奴に、言葉は通じるらしいと安心した。
 下山中にも色々な質問をされ、それに次々答えて行き、寺院に着く頃には一応まともな会話が出来るようになっていた。
 言葉を知らない、と言うよりは、忘れているような反応だったが。
 何にせよ、自分の言うことにちゃんと耳は貸すし、これなら連れ帰っても問題無いだろうと思った自分が甘かった。
 予定の期日を一週間も遅れて帰ってきた三蔵に、当然僧達はどうでもいい小言を話し出す。
 三蔵一人なら適当に聞き流し、仕事が溜まっているのを理由にさっさと引き上げて黙らせるのだが。
 崇拝する三蔵が責められているのを見た悟空は、早速三蔵以外の人間を、敵と認識してしまった。
 お陰で全く持って目が離せなくなった。
 ともかく三蔵の言うことはよく聞くクセに、他の者の言うことは全く聞かないのだ。
 しかもじっとしている事だけは出来ないらしい。
 それはそうだろう。
 じっとしている何て事は、もう五百年も続けてきて、とうに飽きてしまったのだ。
 ならばせめて自分の見える範囲で遊ばせておいた方がまだマシだ、と思い、三蔵は中庭の見渡せる自室に仕事を持ち込む事にした。
 机を窓に横付けし、中庭でなら好きにして良い、と悟空に教える。
 それは大きな寺院らしく、決して狭くない庭だったが、駆け回る悟空には小さかったのだろう。
 寺院から出る事を禁じられて彼は酷く落胆していたが、我慢はして貰わねばならなかった。
 そう。せめて自分がもう少し年をとり、自由に力を奮えるようになるまでは。
 所詮自分も、籠の中の鳥でしかないのだから。
 窓から中庭を覗くと、悟空は中庭の中央にそびえ立つ、一番の大木に登っていた。
 猿だな、と三蔵は思う。
 木の下から数人の僧達が、悟空に向かって叫んでいる。
 そう言えばあの木は神木だったかと思い出したが、猿を制するなどそれこそ馬鹿らしい事でしかなかった。
 僧達は口々に、何故よりにもよって御神木に登るのか、とぼやいていたが、一番立派だから登るのだ、と三蔵は考えた。
 意外にも悟空の言葉や行動を、理解しようとしている自分がおかしかった。
 もしかして。否、もしかしなくても。こいつを「育て」ようとしている自分がいるのだから。
 世間の常識ではまだ成人すらしていない若い自分が、無謀なことを考えたものだ。
 今も彼の為に、仕事を中断してみせる。
「さんぞー!なあ、さんぞーってば!」
「だから何だ。ちゃんと聞こえてる」
「水!空から水が落ちてくる!!」
 見ると次第に降りが激しくなっている。
「馬鹿か。濡れるぞ、早く入って来い」
「わかった!」
 下の階の窓枠に手をかけると、建物の出っ張りを利用して、三蔵のいる部屋まで上ってくる。
 最後の窓枠をしっかり掴んだ事を確認して、
「窓から出入りするなと言ってるだろ!」
「キャン!」
 手加減したハリセンで叩いてやった。
「あぶねーじゃん、さんぞー!落ちたらどうするんだよ!」
「大丈夫だ。ここから落ちた位じゃ死なん」
「ひでぇ・・・」
 ぶうぶうと文句を言いながらも、悟空は再び空に目を向けた。
「三蔵・・・何処から水が出てきてるの?」
 曇り空から落ちる水滴。スタート地点は目の良い彼にも見えなかった。
「お前に気象学話したって、まだ分かんねぇだろ。それにあれは「雨」って言うんだよ」
「あめ?」
「そうだ。空から降る水の事を、雨って言うんだ。・・・見た事無ぇのか?」
「うん。初めて見た。すげえな・・・・・」
 何がすごいのかは分からないが、初めて見る雨は彼にとってすごいものだったのだろう。
 三蔵は、遠い五行山を思い出す。
 雨など見れる訳がない。
 彼の山の頂上は、雲より高く在るのだから。
 次第に雨は強くなる。
 雨が部屋に入らないように、小さな格子窓だけ残して窓を閉める。
 彼はそこから動かずに、じっと外を見つめていた。
 三蔵はその後ろで静かにお茶を煎れる。
 お茶とお茶菓子を、二人分用意して。
 三蔵が一人の頃は、お茶は側付きの坊主が煎れていた。
 悟空が来てから三蔵は自室にいる事が多くなったので、今は自分で煎れている。
(そのうちこいつにも、美味しいお茶の煎れ方を教えよう)
 呑み込みは早い方だから、きっとすぐ覚えられるだろう。
 雨は小さな中庭を充たして行く。
 それが彼の見た、最初の雨だった。


END.


出会ってまだ一週間そこらの雨話。それだけなんですが、それだけなのに三ちゃんもう猿ラブなのが困っちゃいますね(困るのは貴様の頭だ)
雨の話だからって期待(何の)しちゃダメです。私は実はこういう何でもない日常の一コマをいちいち話にするのが大好きなのです。
次の雨話も、きっと何でもない話でしょう。


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