君という名の下に




 その日の悟空は、一味違った。
 朝から一枚の紙切れを見つめながら、何時間もうなっている。
 片手にはもう少しで墨の滴がしたたり落ちそうな一本の筆。
 もう片手には、先程失敗したばかりの九めた紙が握られていた。
 墨で汚してしまわないよう少し遠くに置かれた紙には、達筆な字で「悟空」と書かれている。
 悟空は、それを見ながら筆を再び墨に浸けた。
 そして新しく出した紙に文字を書こうとしているのだが、
「げっ!・・あーあ、また失敗だよー・ ・」
どうやらうまくいかないようだ。
 墨汁を切る、と言う単純な事を知らないから、紙に文字を書き入れる前に紙を汚してしまうのだ。
 悟空は再び、出したばかりの紙を丸めた。
 三蔵は今、仕事でいない。でも夜までには帰って来るだろう。
 朝仕事に行く直前の三蔵を捕まえて、このお手本を書いて貰った。
突然そんな事を言った自分に三蔵は不審な目を向けたが、字の練習がしたいのだ、と言ったら、それは良い頂向だと言ってさらりと書いてくれた。
 普段三蔵がいない時間は遊び時間だった。
 勉強は三蔵が私室であるこの部屋にいる時しかしないので、一人で勉強すると言った悟空の台詞は三蔵を十分に驚かせるものではあったが、自ら勉強するようになった事は決して悪いことでは無いし、それに勉強をしている間はこの部屋から出る事も無いのだから、三蔵にとってこれほど有り難いことは無かった。なぜ突然勉強したいと言い出したかは分からないが、下手に余計な詮索をしてせっかくやる気になっているらしい気持ちを削ぐのも無意味な事だったし、それに自分から言い出した事なのだから、たとえ途中で飽きてしまったとしても今日一日、せめて自分が帰って来るまではおとなしく我慢するだろうと思い、三蔵は何も聞かずに仕事へ行った。
 それから悟空は三蔵の置いていってくれた大量の紙と筆相手に、一人で格闘しているのだ。
「あ、そっか。墨が落ちなくなってから書けばいいんじゃん」
 それでも大量に滲んでしまうのだが、何度も同じことを操り返していた悟空には大進歩だった。
 これで漸く字を書く練習に入れる。
 じっくりお手本をながめながら、何とか同じ形になるよう、まねして行く。
 三蔵がものの数秒で書いた文字を、悟空は何度も書き足し、数分掛けて書き上げた。
 初めて書いたそれは、とてもじゃ無いが「悟空」とは呼べない代物だった。
 だが、初めて書けたのだからそれでも上出来だ。
 やっと書けた文字。それは丸めずに隣に置いた。
 再びチャレンジする。前よりも墨を振り落として、前よりも形を近づける。
 一枚一枚並べてゆくと、少しずつ三蔵の書いた文字に近づいていってるのがよく分かる。
 もちろん、三蔵のような奇麗な字にはほど遠いものではあったが。
 数十枚書き上げた頃に、三蔵の側付きの坊主がお茶とお菓子を差し入れにやってきた。
 寺院の本館で仕事をしている三蔵が手配してくれたのだろう。
 持って来た饅頭に齧り付く悟空の横で、お茶を入れてくれていた坊主が、机の方をちらりと見やって、
「悟空さん、ご自分の名前が書けるようになったんですね」
と言った。
「やったあ。ちゃんと読めるんだ」
「ええ、分かりますよ。これでもう大丈夫ですね」
「ありがとな!」
 仲良く最後の一つを半分個にして、悟空の湯飲みにお茶を注ぎ足すと、彼は仕事に戻って行った。
 机の上に置いてある紙には、やっとこ読める字で「悟空」と書いてある。
 それはてんでバランスの悪い、無茶苦茶な図形のような字ではあったが、それでも読めるようにはなったらしい。
 彼の言葉に励まされて、悟空は再び紙と向き合う。
 三蔵が帰って来るまでに、何とか三蔵に読んで貰える位の字にするのだ。
 悟空は気合を入れる為、時折やる癖で、手のひらでぐいと頬を拭う仕草をした。



「三蔵っおかえりーv」
「その手で触るなっ!」
 三蔵が私室へと帰宅したとき、悟空は出て行った時と同じ、机に向かって筆を握っていた。
 三蔵が帰って来たので悟空は勢いよく立ち上がり三蔵の元へ駆け寄ろうとしたのだが、突然この台詞である。
 何事かと思って自分の両手を見てみると、すっかり墨汁で真っ黒になっていた。これでは三蔵の反応も仕方が無いだろう。
「ごめんっ、すぐ洗ってくるからっ!」
 扉を汚されるのが嫌で三蔵自ら扉を開けてやると、悟空は走って水場へ駆けて行った。
「あのガキ・・よくもこれだけ汚しやがって・・・」
 散乱する紙のゴミを拾いながら、三蔵は机の真ん中に並べて置かれている二枚の紙を覗き込んだ。
 一枚は朝自分が書いたお手本。
 隣に、随分頑張った事がよく分かる、彼らしいカ強い字で「悟空」と書いてあった。
「ふん・・・一日で随分上達したじゃねえか」
 もちろんこれ以外の字は、相変わらずなのだろうが。
 三蔵は屑入れに紙の玉を放り投げながら、こっそり一人で苦笑した。



 三蔵の朝は早い。いつも日の出と共に起きて来る彼は、今日も日の出と共にあった。寝起きは良い方ではないが、起きない訳ではなく、ただ起きてから数十分はぼんやりしているだけで。
 いつものように前後不覚のまま部屋の扉を開けると、やはりいつものように顔を洗う水桶が用意してあった。
 それで何とか目を覚まそうと、三は顔を洗う。
 水の冷たさで次第に意識がはっきりして来ると、桶の隣に置いてある布で水を拭った。
 その時、水に写る自分の顔になんだか違和感があったような気がして、三蔵は再び桶に顔を写した。
 じっと、波紋が治まるのを待つ。
「?・・・さ・・・猿ーーー!!!」
 三の美声は爽やかな早朝によく響く。
 遠くでその悲鳴(奇声?)を聞き付けた坊主達があわてて走って来たが、その足音を聞き付けて部屋へ逃げ込む三蔵の方が早かった。
 そして、三蔵は中から扉に錠を下ろしてしまった。
「三蔵様!どうしましたか!?ご無事ですか!!」
「うるせぇ、何でも無え!!」
 扉をどんどんと叩くのを止めさせてから、三蔵は自分を落ち着かせる為に、ゆっくりと廊下の坊主達に向かって言った。
「・・・本日は体調が優れない故、仕事は自室でやる。書類も給仕も、全て蒔に運ばせろ」
 蒔、と言うのは三蔵の身の回りの世話をする坊主だ。昨日、悟空にお菓子を持って来たのも彼で、三蔵がこの寺院に来た頃から近くに置いている。年は三蔵より少しだけ若く、悟空の世話もよくしてくれている。悟空にとって気の許せないこの寺院の中で、彼は三蔵の次に好きな人間だった。
「んん・・さんぞー・・どうしたの・・・?」
 騒ぎで起きて来た悟空が、まだ眠い目を擦りながら三蔵の側に行く。
 三蔵は扉の向こうの気配が完全に去ったのを確認し、そのまま錠は外さず、くるりと振り返るなりハリセンを振り上げた。

すぱーんっ・・・

「・・・いってー!何すんだよ、さんぞー!」
「何すんだと!?それはこっちの台詞だ、この馬鹿ザルっ!!!」
 もう一度ハリセンを往復させる。普段から三蔵は悟空をよく叩いたが、それはいつも躾の為にやっている事で、こんなふうに怒りから悟空を叩く事は滅多に無かった。三蔵を怒らせるような事をした覚えの無い悟空は、涙目で三蔵を見上げた。
「何怒ってんだよ、さんぞ!!俺何にもやって無いじゃん!」
 いつもと違う事をしたと言えば、昨日の勉教だけで。
 確かに部屋を汚したし、机の上も所々に墨が散らばっていて後始末は大変だったが、それでも帰って来た三蔵と一緒に掃除をし、咋日の事はこれもう帳消しになったはずなのだ。あの事にかんして実は三蔵が怒っていない事も知っている。それはわざわざ三蔵が壁に張ってくれた、「悟空」と書かれた二枚の紙が証明していた。
「・・・何もやって無い、だと?・・ふっ・・人の顔に落書きしといて何ふざけた事言ってやがるっ!!」
 見ると、三蔵の左の頬には完全に落としきれて無い墨跡が付いていて、文字のようなものが書かれていた事が明らかに分かった。
 だが、それを見た悟空の反応は、三蔵が予想していたものとは全く違った。
「あー!!せっかく名前書いて置いたのに、三蔵消しちゃったの!?」
「・・は?・・名前・・・?」
「うん、俺の名前!蒔が大事なものには自分の名前を言いておくんだって言ってたから!」
 その一言で、三蔵は蒔と悟空の間でどう言う会話がなされたか、ほとんど理解出来てしまった。
 それは一昨日の事。三蔵の仕事中に悟空は蒔の仕事、主に三蔵の身の回りの雑用だが、それを時々手伝う事があった。その時は洗濯をしていて、これなら自分も手伝えると思い邪魔にならない範囲で手伝いをした。
 蒔は何枚も着物を洗っていたが、干す時に着物の持ち主の名前を言いながら一つ一つかけていく癖があるのだ。
「これは三蔵様の。これは僧正様の。こっちは・・・」
 悟空にだって三蔵の着ている物は分かる。
 だが何十枚と似たような着物が並ぶのに、何故蒔は分かるのだろう。
「それはね、交ざって分からなくなってしまわないように、ちゃんと一つ一つ、裏地に名前が刺繍してあるんですよ」
 ほらね、と見せてくれた着物の裏には、「蒔鍬」と刺繍してあった。
「誰の?」
「僕のですよ。悟空さんのはほら、これ」
 知らないうちに自分の服にも、それはちゃんと縫い付けてあった。
「これ、俺の名前?」
「ええ、こう書くんです。三蔵様に習いませんでしたか?」
「俺、勉強苦手だから、まだ簡単な字読む位しか出来ないんだ」
「じゃあ、ちゃんと名前位は書けるようにならないと。大切な物や無くしたくない物には名前を書いておくんです。そうすれば無くならないし、もし無くなってしまっても、自分の元に戻って来るんですよ」
 そう言って彼は、パンッと青空に向かって、洗濯物をはためかせた。
 それで三蔵は突然勉強したいと言ってきた悟空の行動に合点がいった。だが、誰が予想出来るだろう。名前を書けるようになりたいと頑張っていた目的が、自分に名前を書く為だろうとは。
「あのな・・猿、お前は一つ勘違いしている。・・・名前を書いていいのは自分の所有物だけだ。所有物ってのは自分の持ち物。俺はお前のもんじゃ無えから、名前を書いちゃいけねえし、大体人間に名前を書こうって発想自体が間違ってる」
「えっ、そうなのか!?・・・でも、俺、三蔵の事一番大切だし、無くしたくないから・・・名前を書いておけば大丈夫だと・・・思ったんだ・・」
 三蔵はぐしぐしと泣き出す悟空の頭にげんこつを一つ入れる。
 ごつん、と良い音がすると、悟空の涙が痛みでぴたりと止まった。
「泣くな。理屈は分かったからもうやるな。大体、墨汁が落ちにくい事を知っててこんな目立つ場所に書くてめえが悪い」
 目を赤くして頬を擦る仕草をする悟空の手のひらとほっぺたには、昨日洗っても奇麗に落ちなかった、墨汁の後がくっきりと残っていた。
「・・じゃあさ、目立たない所なら、怒らなかった・・?」
 ごつん、と良い音が響く。
「馬ー鹿。名前書いておかなきゃ無くなっちまうって心配する程、てめえに自信無ぇのかよ」
 悟空は三蔵を見上げる。それは、そんな事をしなくても、ずっと一緒に居てくれると言う事だろうか?名前なんか書いておかなくても、三蔵は悟空の前から居なくなったりしない。三蔵がずっと側に居てくれる程、自分は三蔵にとって大切な存在なのだろうか。
 聞いたって三蔵は教えてくれはしないだろう。でも、今は分からなくてもいい。
 三蔵はずっと側に居てくれるから、ゆっくりと考えればいいのだ。
「三蔵様、蒔が参りました。朝食をお持ちしたのですがよろしいでしょうか?」
 そういえばもうそんな時間だった。起きたばかりの悟空の腹は、くるくると鳴っている。
「ああ、今開ける」
 三蔵が鍵を開けると、ものすごい量の食事を抱えて、蒔が中に入って来た。
「おはようございます。朝から喧嘩ですか?ご飯を食べて仲直りして下さいね」
 二人を一番近くで見ている彼には、早朝から目を腫らしている悟空の姿など、よく見慣れた光景だった。
「所で三蔵様、お加滅が優れないと伺ったのですが・・・大丈夫そうですね」
 そういう蒔の表情は、どこか笑いを堪えているような顔だった。
 本人の預かり知らぬ所とは言え、もともとの発端者となった彼には、三蔵の頬に書かれた、既に滲んで消えかかっている文字が読めたのだろう。
「・・・蒔、後で石鹸持って来い・・・」
「はい♪」
 楽しそうに部屋を出て行く後ろ姿と、幸せそうにお粥を口に運ぶ姿と。
 見比べて三蔵は大きなため息をつく。
 その三蔵の苦労に呼応するように、壁に張られた 二枚の紙が風に揺れた。




後日。

ー!!ひでぇんだせ、三蔵の奴!!ほら、見てくれよっ!!」
「おや、これは・ ・まあ・ ・」
 昼近くになって起きて来た悟空が、悟空の食事を用意する為に厨房にいた蒔の所へ駆け込んで来た。
 そこで突然悟空は上着を捲り上げると、そこには悟空の腹にでかでかと、明らかに三蔵が書いたと思われる字が書かれていた。
「さんぞー、もうやるなって言っておきながら、自分はこういう事するんだもんなー。なあ蒔、これ落ちる??」
「うーん・・・落ちない事は無いですが・・・三蔵様、あの性格ですからね。今日は一緒にお風呂に入って、落としていいか許可を貰ってからにしたらどうです?」
「げー、夜までこのまま!?はずかしーよう」
「それを自分がやったでしょう?因果応報ってやつですよ」
「いんが・・・う、わかんねー・・・」
 くすくすと笑う蒔の目には、これを書きながらニヤリと笑う三蔵の姿が浮かんでいた。
 これは、なんて強烈なラブレターなのだろう。
 達筆過ぎて悟空には読めない事など計算の内。
 うろたえる悟空の腹にはしっかりと、
「玄奘三蔵法師」
と書かれていた。








相変わらず寒いまでの猿ラブっぷりで・・・。
この小説にvってイラストを頂いてしまったのですよ!!!オフラインの方で親しくさせて頂いております穂高安曇さまからラブい猿をー!!!貰った瞬間即座にサイト掲載許可を取る辺り、相変わらずの極悪非道っぷりです、私。や、とっさにその判断が出来る私を誉めてやりたいです(死)
しかも穂高さんはなななななんと!!三蔵×悟空の方なのですー!!!(そんなに驚く事か)つまりうっかり気が付かなかった93の方、いらっしゃると思いますが、上イラストの台詞は三蔵が言っているものだと思われます。え?そんな事分かるって??・・・すいません。分かってても私の頭の中では悟空が言ってる台詞に変換されてましてよ。御免なさい、穂高さん!こんな自称(自称!?)93サイトに飾られるって事は、書いた御本人がどう思ってても、どんなに猿が可愛かろうと、この猿は攻めって事でっっっ!!!・・・と言うわけでまあ、このぷりちーなお猿の三つ編みは三蔵が結ってるって事で。(←脈絡ねぇよ・・・)それにしても達筆ですね、穂高さんv




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